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競馬に八百長はあるか?

大相撲の「八百長メール」をめぐって、メディアが騒いでいる。
私が住んでいる東京下町の両国界隈にもマスコミが押し寄せ、うっかり国技館辺りを歩いていると、インタビューを受けてしまいそうだ。

TVの取材に答えて、放駒理事長は「過去にはなかったこと」と、不自然に強調したが、私に言わせれば「あれ?そうだったの?」という感じだ。
たとえば、千秋楽の、7勝7敗の力士の勝率を見よ!である。
すでに勝ち越しを決めている力士と当たる場合など、まれに、その力士に勝たれることがあったりすると、「あれ、負けてあげないの?」という気持ちになったものだ。

昔から、星の貸し借りはあった。
相撲なんてそんなものだと思っていた。
ただ、今回の「メール」のように、表に出るものとして証拠が残っていなかっただけ。
たぶん、お互いの「暗黙の了解」で行われていたのだろう。
だって、自分は勝ち越しており、千秋楽に、相手が自分のために負け越したら・・・・と考えたら、負けてやってもいいかもと思うのは人情だし、その気持ちもよくわかる。

きょうの朝日新聞の「天声人語」では、「真剣勝負とは別の『ルール』が存在していたのでは、どんなスポーツでも成り立たない」と書いているが、相撲ってスポーツだったのだろうか。

同じ朝日新聞の「社説」は、「相撲は競技か、興業か」というタイトルで、「星のやりとりがあったとすれば、ファンへの背信、大相撲の根幹を揺るがす重い事態」「真剣勝負を堪能してもらおうと、日々、鍛錬を積んでいる多くの力士の努力を踏みにじるもの」と、いかにも「朝日らしい見解」を述べている。
まあ、このあたりが、大方の人々の意見のおちつきどころなのだろう。

しかし、池田信夫氏などは、彼のブログで「八百長は日本の伝統」とはっきり書いている。
「賭博罪になる野球賭博と違って、八百長は違法行為ではない。
当の関取が悪いと思っていないから。
八百長や談合は、当事者にとってはWinWinゲームだからだ・・・・」
と述べた後で、
「人間関係でも商売でも、こうした『貸し借り』でお互いに困ったときに助け合うのが日本の美しい伝統だった」
と言い、
「電波利権をめぐる総務省と通信業者の八百長構図も同じだ」
と、その構図について触れている。

池田氏のブログ

http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51672987.html


プロレスを見て、「八百長だ」と騒ぐ人はいない。
では、大相撲は?

あれは競技なのだろうか、それとも興業?
興業なら、お客さまを楽しませるためのさまざまな演出があってもおかしくない。
(これを負けたら三役から陥落という力士が、千秋楽で勝ってもおかしくない。ファンは喜ぶだろう・・・・それが、八百長であるかどうかは別にして)。

昔、競馬場や場外馬券売り場で、レースが終わったとたん(とくに人気馬が負けて、人気薄が勝ったりするときに)「八百長だ」と叫ぶ人を何十回となく目撃した。

さて、八百長とはなんだろう。
Wikipediaでは「八百長(やおちょう)とは「いんちき」の意で、まともに争っているようにみせながら、事前に示し合わせた通りに勝負をつけること」と言っている。

という意味では、今回の大相撲の八百長は実際にあったことなのだろう。
「由々しきこと」と思うか、「相撲なんてそんなもの」と思うかの違いだ。

相撲の場合は、当人同士のやりとりか、暗黙の了解で八百長が成り立つかもしれないが、競馬の場合は成り立たないだろう。
競馬など、公営ギャンブルでの厳密な意味での八百長とは、カネを使って当事者に工作し、レースを作る(1、2、3着などの着順を決める)ことだからである。
たとえば、騎手(関係者)にカネを渡して、「おまえは4着以下に落ちろ」「おまえは勝たないで2着になれ」などと、主要な関係者(あるいは全員)に働きかけてレースの着順を決めてしまう。
そんなことが、できるわけがない。
競馬に八百長はない。

しかし、競馬はスポーツではなく、興業なのだから、それに似た行為は発生するかもしれない。
断然1番人気の馬が、4着以下にずっこけることは往々にして発生するし、ファンは「そういうことが起こることも競馬だ」と納得しているので、昔のように「八百長だ」と騒ぐ人もいない(強いて言えば「片八百長」?)。
しかし、興業である競馬を面白いものにするために、主催者側によってさまざまな演出がなされているということは、はっきり認識してかかる必要があると思う。



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