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シンモエダケよいつまでも・・・あっと驚くその戦歴!

九州、霧島連山で「新燃岳」が大爆発・・・・。
ん? しんもえだけ?
被災地の地元の方々にはまことに申し訳ないが、むかし、JRAの競走馬に「シンモエダケ」という雌馬がいたことを思い出した。

ネットの威力はすばらしい。
「シンモエダケ」をgoogleで検索してみると、どなたかが、きっちりと、昔の馬の整理をして見せてくれているらしく、シンモエダケの戦跡をあっという間に調べることができた。

それによると、シンモダケは、「1972年の桜花賞を1番人気で7着に負けた馬」ということになっている。
しかし、見てほしい、それまでの彼女の戦跡と、その後の戦歴を・・・・。

彼女は1971年(昭和46年)デビューである。
そしてデビュー以後の戦歴は・・・・

新馬 1着
鎮西3歳ステークス 1着
オープン 1着
デイリー杯3歳ステークス 1着
紅葉杯 1着
京都3歳ステークス 4着
阪神3歳牝馬ステークス 1着
紅梅賞 1着
シンザン記念 1着
毎日杯 3着
阪神4歳牝馬ステークス 1着

ここまで、すべて1番人気か2番人気である。
そして、本番の桜花賞では1番人気に支持され、7着に終わってしまった(1着はアチーブスター)。

驚くのは、デビュー以来、本番の桜花賞出走まで11戦もしていることである。

しかも、桜花賞で7着に敗れた後、彼女は引退するまでに、さらに11回も走ってしまうのだ。
でも、勝ち鞍はなく、3着が3回・・・・。

信じられな~い。

いまは、新馬でデビュー以後、桜花賞まで5回以上戦ったら使いすぎ・・・などといわれる時代である。
シンモエダケのけなげさ?
そうじゃないだろ。
おいおい、馬主さん、こんなに使っていいの?って感じ。

いまの「グレード制度」が確立されていなかった時代、向こう側の人(馬主サークル)の人たちは、桜花賞に出生するために、こんな使い方をして、稼いでいたわけなのだろうか。

ところで・・・・
ネットでシンモエダケの戦歴をチェックしていたら、なつかしや、同時期の「牡馬たち」の名前が続々出てきた。
たとえば・・・・
同年(72年)の皐月賞馬はランドプリンスであった。
NHK杯馬はランドジャガー(東京競馬場で目撃しました)。
ダービー馬はロングエース(騎手は武豊の父、武邦彦騎乗)。
そして菊花賞がイシノヒカル(騎手は翌年からハイセイコーに乗ることになる増沢)。
そのイシノヒカルは、その年の有馬記念をもぶっこ抜いてしまうのだ(中山競馬場で見ました。2着は、あのメジロアサマ)。

さらに、この年の同期には、クラシックの大舞台では主役を演じることができなかった「貴公子=タイテエム」や、脇役を演じたハクホオショウ、そして、翌年の有馬記念を勝ったストロングエイトなど、あとから考えるとそうそうたる、綺羅星のごとくの役者がそろっていた。

これが、ハイセイコーやタケホープたちがデビューする「前の年」のことだったのだ。
いい時代だったなあ。

シンモエダケよいつまでも。

新燃岳よお静かに・・・・。



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